
エレクトリック・ウォッチの登場と発展
1950年代後半、フランスのリップとアメリカのエルジンの合作によるエレクトリック・ウォッチや、アメリカのハミルトンによる有名なヴェンチュラなど、小型電池で駆動するエレクトリック・ウォッチが相次いで登場し、大いに話題を集めました。
しかし、これら初期のエレクトリック・ウォッチは間もなく信頼性の低さを露呈し、商品化に踏み切ったメーカー達は、返送される修理品の山に苦しめられることになりました。
そんな中、1960年にはそれまでの電磁テンプに代わって音叉を採用したマックス・ ヘッツェル氏による傑作、ブローバ アキュトロンが誕生。
アキュトロンは機械式時計では到達右脳なレベルの高精度と日常使用に耐えるタフネスを併せ持ちながら、従来の機械式時計よりも手ごろ感のある価格で販売されて大ヒットを記録、発売から2年間で10万本以上、1968年までに100万本が販売され、弱り切っていたアメリカの時計産業を10年間延命したといわれています。

CEHの設立
機械式時計において圧倒的なシェアを誇るスイスの時計メーカー達は、実際にアキュトロンがこれだけの大ヒットを記録していても表立った対抗策を講じることは有りませんでしたが、当時のスイス時計協会会長、ジェラール・バウアー氏をはじめ、これらのエレクトリックウォッチがスイス時計業界の優位性を脅かす可能性を危惧する人は少なからず存在しており、スイスでもエレクトリック・ウォッチへの取り組みを強化すべき、との声が高まりました。
しかし当時のスイスの時計メーカーにおいて、エレクトロニクス技術を保有する会社は極一部に限られており、スイス時計研究所(LSRH)も機械式時計を専門としていたことから、新たな研究機関の設立が必要になりました。
そこでスイス時計協会のリーダーシップの下、エボーシュSA(エッタの前身)の支援を受け、1962年に電子時計センター(Centre Electronique Horloger, CEH)をヌーシャテルに発足、スイス国内外から優秀なエレクトロニクスの技師達を集結させたのです。

セイコー クリスタル クロノメーター
しかし最初に成果を上げたのはセイコーでした。
1959年に決定した5年後の東京オリンピックの公式計時担当を目指したセイコーは「59Aプロジェクト」として、諏訪精工舎にあらゆる環境に対応できる小型・低電力な水晶時計の開発を指示。
その後約4年間の歳月を経て、セイコーは1963年9月に携帯用クオーツ時計 クリスタルクロノメーターQC-951の発表に漕ぎ着けました。

画像引用元 https://museum.seiko.co.jp/collections/sports_watch/collect001/
このQC-951は新しく開発された温度補正装置(サーモバリコン)によって、それまで100~150Wであった消費電力が0.003Wにまで抑えられるようになり、 -10~50℃の温度下において単一乾電池2本で平均日差±0.2秒の精度を約1年間維持できるようになったのです。
これと同年に発表されたセイコーによるもう一つの革新、すなわち常にテンプを同じ位置に停止させる機能を加えることで、それまで機械式ストップウォッチが避けられないとされてきた微細な計測誤差を過去のものとした89系キャリバー搭載のストップウォッチなどと共に、クリスタルクロノメーターはセイコーがオリンピック史上初めてスイス勢を抑えて公式計時を勝ち取る原動力となりました。
QC-951は翌年に開催された東京オリンピックでバックアップタイマーとして活躍したほか、その後継機達は新幹線や南極観測雪上車などにも搭載され、大いに活躍の場を広げていきました。
CEHの研究開発

「既存の計時技術よりも少なくとも一つの面において優れた技術を開発し、交渉や特許取得を有利に進められるようにすること」
これが1962年のCEH発足時に掲げられた目標でした。
CEH立ち上げ時からのメンバーであったエリック・ヴィトッツ氏は、手始めにクオーツ時計のプロトタイプを製作しましたが、小さくすればするほど振動数が高くなる性質を持つクオーツ振動子を腕時計に収まるサイズにまで小さくしてしまった場合、その発生する振動数は当時の電子技術では追い付かないほどの高振動になってしまう、との理由でCEHは早々にクオーツ時計の開発を一旦中止、アキュトロンで使用されている音響振動子や半導体集積回路(IC)技術など、他の分野に研究の重点を切り替えました。
いうまでもなくCEHで行われていたエレクトロニクス技術の研究は当時の最先端であり、国内外の電子機器の業界からも大いに注目を集め、中には優秀なエンジニア集団であるCEHを傘下に収めようとする企業も現れました。
しかしCEHはあくまで中立な立場の堅持と目的の早期達成を重要視し、その研究内容を機密事項として厳重に管理、1964年の段階で進行中であった2つのプロジェクトにアルファとベータというコードネームを使用しました。
アルファプロジェクトではハインツ・ヴァルトブルガー氏率いるチームによる、アキュトロンの音叉型振動子における位置や重力の影響を軽減できると考えられている8の字型の音響振動子の開発
ベータプロジェクトではスタンフォード大学とゼネラルエレクトリックに在籍していたエンジニア、マックス・フォラー氏が率いるチームによる従来の音叉型振動子と周波数分割器の組合せによるブローバの特許使用の回避
これらはこの段階ではクオーツ振動子を扱ったものにはなっていませんが、結果的にはスイス初のクオーツ腕時計用ムーブメント、ベータ21の要となる発想の多くを生み出すことになります。
アメリカのショックレー・セミコンダクターという会社から雇われ、半導体開発の責任者となったクルト・ヒューブナー氏によるICはクオーツ共振器に電力を供給
エリック・ヴィトッツ氏による研究を活用してクオーツ共振器の周波数分割器を開発
アンリ・オゲイ氏による振動モーターにより輪列を駆動
これらの成果の全てはスポンサー企業にも秘密にされ、各研究者は隔離された状態で研究を進め、その全体像は極限られた一部のスタッフのみで共有されました。
クオーツ腕時計の誕生
1965年5月、CEHの研究者であったアーミン・フライ氏とロルフ・ロッヒンガー氏は、課題をクリアできる可能性が有る新しい振動子について、改めて検討を進めていました。
フライ氏は圧電セラミックと金属結晶の研究を担当していましたが、必然的に彼の研究対象はクオーツに向かったのです。
先述の通り、当時はクオーツを腕時計用に小さくカットすると振動数が余りにも高くなり過ぎると見られていましたが、フライ氏は10kHz以下の振動数で振動する小型のクオーツ発振器を製作出来れば、システムの消費電力を実用可能な範囲まで抑えられると考えました。
10kHz以下の発振器が作れれば、バイナリ・フリップ-フロップトランジスターの連鎖によってその周波数を使用可能な周波数にまで下げることが出来、新型のドライバー回路によって十分な電力を供給出来、そしてCEHのチームは既にこれらを集積回路に実装する技術を持っていたのです。
そしてフライ氏とロッヒンガー氏はその後の半年間を費やして、秘密裏に小型の水晶発振器のプロトタイプの開発に成功。
彼らの貢献により、CEHは大きな一歩を踏み出す事が出来ました。
すなわち1965年11月、CEHの所長であったロジャー・ウェリンガー氏は、1966年の組織の焦点はクオーツ腕時計の製造である、と宣言したのです。
そして1966年にフライ氏は8,192Hzのクオーツ発振器、そして駆動回路と周波数調整器の開発に成功、これらは半導体部門によってICに実装され、時計職人たちは同年の年末までに実用可能なプロトタイプを製作することが出来ました。
更に1967年には、ジャン・ヘルマン氏によって革新的な温度補正回路が考案されました。
こうして世界初の腕時計用クオーツムーブメントが完成、元々のベータプロジェクト、すなわち「従来の音叉型振動子と周波数分割器の組合せによるブローバの特許使用の回避」とは結果的に異なるものになりましたが、ベータプロジェクトの延長線上に誕生したこのムーブメントは、ベータ1と名付けられました。

画像引用元 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Csem-beta1.jpg
ベータ1からベータ2へ
ベータ1においては14段階の周波数分割器を用いて周波数を8,192Hzから0.5Hzにまで下げ、ステッピングモーターが一秒ごとに作動して輪列を駆動する仕組みを構築しましたが、実用化するにはもっと消費電力を抑える必要があることは明らかでした。
そこでマックス・フォラー氏率いる回路部門は、ベータ1よりもシンプルな5段階の周波数分割器に置き換え、周波数を8,192Hzから256Hzに落として、256Hzの電流でステッピングモーターを作動させることで時間を刻む新たなムーブメント、ベータ2を作成、理論上1個のボタン電池で1年以上の駆動を可能としました。

その年にCEHはヌーシャテルの国際クロノメーターコンクールにベータ1とベータ2を出品しましたが、そこに日本のセイコーもクリスタルクロノメーターから発展させて作り上げた腕時計用クオーツムーブメントを出品しており、CEHのスタッフ達が重ねてきた努力がスイス時計業界にとっていかに重要であったかを再認識させることになりました。
これらのCEH、およびセイコーによるクオーツムーブメントのコンクールの成績があまりにも優秀であったことから、ヌーシャテル天文台は伝統あるクロノメーターコンクールが意味を失ったとして、1968年以降のコンクールを開催しないとの衝撃的な発表を行い、その後の時計業界に大きな影響を与えました。
こうしてCEHはベータ1とベータ2という、世界最先端の優れた成果を上げるに至りましたが、日本のセイコーに先を越されてしまうのだけはどうしても避けたかったに違いありません。
量産化プロジェクトにあたっては、既存の技術で一年以上の電池寿命を達成しているマックス・フォラー氏によるベータ2を採用することになり、アーミン・フライ氏らによるベータ1に関する開発は打ち切られることになりました。
アーミン・フライ氏は1967年にCEHを辞職、翌年にはロルフ・ロッヒンガー氏もそれに続き、更に同年にはCEHを立ち上げ時から率いてきた所長のロジャー・ウェリンガー氏も辞職しました。
プロジェクト全体を取り巻く秘密主義が災いしたのか、ウェリンガー氏は1967年8月まで株主に開発の進捗状況を報告を報告しておらず、信頼を失ってしまったウェリンガー氏は外部監査人による経営調査の対象となりました。
同年12月に行われた詳細報告においてクオーツムーブメントのプロトタイプ、ベータ1とベータ2の完成をはじめ、彼らが成し遂げてきた成果がすべて示されましたが、それでもウェリンガー氏の地位は守られなかったのです。
その結果として、ベータプロジェクト発足の当初はクオーツ振動子は実用的ではないとして、音叉振動子を支持していたマックス・フォラー氏は、最近までクオーツ時計発明に携わった主要メンバーとして考えられていたのです。
マックス・フォラー氏は1968年5月にCEHのディレクターに就任、ベータ2の量産化プロジェクトを推し進めました。
ベータ21、完成
一方、アキュトロンの発明者であるマックス・ヘッツェル氏は1963年にブローバを辞職してスイスに帰国、1966年までCEHにて音叉式ムーブメントの改良に取り組みました。
1967年にCEHがクオーツ時計の開発を宣言すると、オメガはヘッツェル氏の研究をCEHから買い取り、ヘッツェル氏はさらに高度な音叉式時計の研究を続けました。
そして1968年にエッタがブローバの特許利用ライセンスを取得したことによってエボーシュSAは独自の音叉式ムーブメントを生産できるようになり、同年にオメガとエボーシュSAは新型の音叉式ムーブメントの発売に漕ぎ着けました。
またCEHが、後に世に出ることになるベータ21(ベータ2の量産版)に振動モーターを利用可能となったのも、このブローバの特許を利用できることになったことが大きかったと思われます。
CEHはベータ21の最適化を目指し、これまで得られたノウハウをフルに活用して1からの再設計に取り組みました。
ドライバーとディバイダーを全部で110個の電子部品を含む単一の集積回路に集約し、一辺わずか2ミリのAAチップを作成。
しかしベータ21の製造は困難を極めた為に1969年の5月、CEHがAAチップを、エボーシュSAが水晶や機械部品を、そして音叉式ムーブメント用のモーターを製作していたオメガが振動モーターを製造し、これらをヌーシャテルはマリンのエボーシュ・エレクトロニックSAが組み立てるという分業体制が生み出されました。

世界初のクオーツ腕時計の発表
目に見えない大きなプレッシャーの中、時計メーカー達によるクオーツ腕時計の開発競争が始まりました。
そんな中で1969年8月20日、CEHの研究にも参加していたロンジンがジュネーブに報道陣を集め、独自で世界初のクオーツ腕時計を発表。
それはウルトラクオーツと呼ばれる、スイスはローザンヌにあったクオーツ時計の研究で知られるベルナール・ゴレイ SAと共同で研究開発を進めていたものでした。

その発表会でロンジンは試作品とその様々な資料を披露し、すぐにもウルトラクオーツの量産を開始すると宣言。
この時点でロンジンは、クオーツ腕時計の開発競争において圧倒的優位にあることを疑う余地はありませんでした。
ロンジンのクオーツ時計開発史
クオーツ時計は1950年代の時点で世界最高の精度を誇っており、多くのスイスの企業や研究機関が科学やスポーツの計時を目標とするクオーツ電子時計の開発競争に参加していましたが、ロンジンも1940年代から「クロノ・カメラ」や「フォト・ジン」「クロノ・シネ・ジン」等といったレース用の写真電子計時機の実用化を通じて、開発競争への参加を表明していました。
そしてロンジンは1954年、初めて自社製の大型クオーツ・クロノメーターのラック マウント モデルをヌーシャテルの天文台コンクールに出品、これで当時の史上最高精度の記録を打ち立て、その後の約10年間で改良を重ねて1965年には3年間で±1秒以内という、まさに夢のような高精度に到達しました。
一方ベルナール・ゴレイSAは、1965年にヌーシャテルの天文台コンクールにマイクロ・クオーツ・クロノメーターを出品、日差0.1秒以下という高精度を記録していました。
中でもベルナール・ゴレイSAのエンジニアであったアンドレ・カシャン氏は、電磁マイクロモーターや電子回路など、このマイクロ・クオーツ・クロノメーターの多くの部分を発明、特許を取得したことで発明者として認められた存在でした。
そんなロンジンとベルナール・ゴレイSAが共同開発を開始し、1966年にはポケットに収まるサイズにまでクオーツ・クロノメーターを小型化、ヌーシャテルのコンクールで高得点を獲得するも、腕時計のサイズにまで小型化するにあたっては、1967年にCEHやセイコーに先を越されていました。
CEHによるベータ2に使用していた集積回路は大変優秀でしたが、ロンジンやゴレイにはそのような技術が無く、多数の電子部品をつなぎ合わせて分周回路を作ることは出来ましたが、コストや消費電力の点で実現は困難でした。
サイバネティック・ウォッチの誕生
そこでロンジンは既成概念に捉われることなく、独自のクオーツウォッチへのアプローチを試みました。
すなわち9,350Hzという、ベータ2の8,192Hzよりも高い振動数を誇るクオーツ振動子と、170Hzの振動数を持つ振動モーターを採用し、比較回路を用いてクオーツ振動子の振動によって振動モーターの振動を毎秒170回に渡って補正するというシステムを生み出したのです。
この比較回路を使用した自己補正の形態を、ロンジンは1969年当時流行していた「サイバネティクス」という言葉を用いて説明し、「ロンジン ウルトラ クオーツ — 世界初のサイバネティック・ウォッチ」として紹介し、世界中を驚かせました。
サイバネティクスはアメリカの数学者、ノーバート・ウィーナーが1948年に出版した著書「サイバネティックス」によって提唱したもので、例えば神経生理学や心理学、社会学などの研究に一見無関係とも思える通信工学、制御工学によって得られた知識を利用して取り組む、という考え方が基になっているものですが、その解釈は時代と共に拡大を繰り返し、ここではその類稀な独創性を表現するに相応しい言葉としてロンジンが用いたと見られます。
世界初のクオーツ腕時計の発売
しかし世界初の腕時計の発売に漕ぎ着けたのはセイコーでした。
1969年12月25日、セイコーはクオーツ アストロン 35SQを発売、4~36℃の環境下において日差±0.2秒、月差±5秒という、機械式時計では到達不能な高精度を発揮し、新しい時代の幕開けを宣言しました。
8,192Hzの音叉型水晶振動子や秒針を1秒ごとのステップ運針の採用による省電力化や、コイル、ステータ、ロータを分散配置することで省スペース化を実現したオープン型ステップモーターの採用など、その開発の過程で取得した特許技術を公開したことで、その後のクオーツウォッチの普及に大きく貢献しました。
このアストロンによる革新はIEEE(米国電気電子学会)によって、2002年に革新企業賞、そして2004年にはマイルストーン賞として表彰され、時計製造技術に留まらないエレクトロニクス技術の革新として認められたほか、アストロンの実機がスミソニアン博物館の永久展示品の指定され、2014年には日本の機械遺産、2018年には重要科学技術資料として登録されるなど、時代を越えて、その歴史的な重要性を広く認められるものとなりました。

クオーツウォッチの発売ラッシュへ
そして翌1970年4月10日、バーゼルフェアにおいてスイス初のクオーツ腕時計用ムーブメント、ベータ21を搭載した20を越える新作がパテック・フィリップやオメガなど、様々なメーカーから一斉に発表されました。




更に1970年の5月にはアメリカのハミルトンが世界初の電子デジタル時計、パルサーを、1971年にはジラール・ペルゴーが、のちにクオーツ発振器の基準となる32,768Hzの振動数を持つキャリバー350を発表。


クオーツ腕時計の生産を一番乗りで発表していたロンジンもベータ21搭載機を発表していましたが、1971年にようやくウルトラ・クオーツの量産モデルの発売を開始、しかしその存在は異端と見なされ、わずか2年で生産を終了したといわれています。


オメガは1973年に240万Hzの超高振動クオーツ、メガクオーツ2400を発表、腕時計として初のマリンクロノメーターを取得、1976年にはアナログ表示の時刻表示と液晶パネルによるクロノグラフ表示を備えるクロノ・クオーツ、そして1977年には全てをLCDで表示するクロノグラフ、キャリバー1620を発表しました。
しかしこうした多くの投資と研究者達の貢献によって、スイスのクオーツ時計技術も目覚ましい進化を続けていたにもかかわらず、スイスの時計メーカー達はクオーツ時計への移行にためらいを隠せませんでした。
ここに繰り返すまでもなく、国際的な時計市場において、スイス製の機械式時計は長きに渡って独占的な状況にあり、スイスの時計メーカーの多くにとって、機械式時計製造の伝統こそが彼らのアイデンティティであり、他のものと置き換えることは容易ではなかったのです。
しかしスイス以外の時計メーカー達の多くは、技術面、マーケティング戦略の両方におけるクオーツ時計の大きな可能性を確信しており、セイコーをはじめ多くの時計メーカーが機械式時計の開発を中止してクオーツ時計に専念するようになりました。
時代はクオーツ時計へ
セイコーは1973年、ハミルトンらによるLEDデジタルに対抗する世界初の6桁表示のLCDディスプレイによるデジタルウォッチ、クオーツLC V.F,Aを発表。
大きな電力を必要とするLEDによる時刻表示では常時表示が不可能であったのに対し、LCDは遥かに省電力で視認性にも優れており、やがてLCDが世界の標準としてなっていきました。
またセイコーはクオーツムーブメントの更なる 小型化、薄型化を推し進め、1974年には厚さを3.8ミリにまで抑えたCal.4130を発表、クオーツのドレスウォッチを実現しました。
更には1975年、LCD表示のデジタルウォッチとして世界初となるストップウォッチ機能を搭載したクロノグラフ0634を発表、1977年にはワールドタイム機能を搭載したデジタルウォッチ、ワールドタイムM158を発表するなど、デジタルウォッチの多機能化への道を切り開いていきました。

次回へ続く
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