前進を続けるスウォッチグループ
オメガは1993年、英国の独立時計師であり、時計研究家でもあるジョージ・ダニエルズ博士が1974年に考案したコーアクシャル脱進機に関する特許利用許可を取得しました。

しかしこの新しい脱進機は従来よりも大きなスペースを必要とし、工作精度の飛躍的な向上も課題となり、長年に渡って業界屈指の量産技術を誇ってきたオメガを以てしても、これを量産ラインに乗せるには6年もの歳月が必要でした。
こうして1999年、初の新型脱進機を搭載したCal.2500が発表され、その後も2007年にはCal.8500へ、2015年にはCal.8900へと、21世紀のオメガによる目覚ましい技術革新の数々とその普及に繋がっていきました。
しかし筆者には、この余りにも素晴らしい革新が多くの人々に響いていないように思えてなりません。
優れた手腕と実行力によって絶体絶命の危機にあったスイス時計業界の活況を取り戻しながらも、苦境に立たされたスウォッチグループが、それでも前進を続けた記録のひとつとして、ここに改めて触れておきたいと思います。

従来の脱進機について
「脱進」はテンプの振動が生み出す等時性を利用して、主輪列の動きを一定のペースに制御する、「ゼンマイが発生する動力の伝達」、「テンプによる調速」に並ぶ機械式時計の根本的な要素のひとつです。
何世紀にも渡る時計の歴史の中で、様々な脱進機が考案されてきましたが、時計が腕に巻かれるようになって以来、腕時計が常に晒され続ける外乱、すなわち姿勢の変化や衝撃、振動に耐えて機能を果たせる、かつゼンマイを巻き上げるだけで確実に動き始める脱進機はクラブトゥースレバー式脱進機しか存在しない、とされてきました。
しかしそのクラブトゥースレバー式脱進機を以てしも、ゼンマイの動力をテンプに伝える過程で発生するエネルギーロスの問題など、改善の余地を残していることが広く認識されており、かのアブラアン・ルイ・ブレゲをはじめ、多くの才能ある時計師達の努力を以てしても、その改善は容易ではありませんでした。
特に機械式時計復権の時代を経てスイス時計業界が繁栄を取り戻しつつあった1990年代、これまで繰り返してきた通り、ムーブメントに関してはエッタに大きく依存していた時計メーカーが大半を占める中、こうした機械式時計の本質について語ろうとする時計メーカーは皆無に近い状況にあったのです。


コーアクシャル脱進機の影響
機械式時計はゼンマイの動力によって回転しようとする歯車の列に対して、テンプが紡ぎ出す等時性を利用して一定のペースでストップ・リリースを繰り返すことで、各歯車の回転速度を一定に保ち、時間を刻みます。
脱進機は歯車の列の回転運動を往復運動に変換し、テンプの振動を利用することで、歯車の列のストップ・リリースを行います。
スイスレバー式におけるストップ・リリースが2か所の接点で行われているのに対し、コーアクシャル脱進機においてはこれを4か所に分散することで、接点ひとつあたりの負荷(摩擦)を大幅に軽減しました。
これによって各接点に必要な潤滑油も軽減され、従来よりも長期に渡って高精度を維持出来ることから、メンテナンスの頻度を減らすことを可能にしたのです。
以上はスイスレバー脱進機とコーアクシャル脱進機の違いを極力簡潔にまとめようとしたものですが、こう言ってしまうとあまりに単純な事のように聞こえるかもしれませんし、実際に多くの説明不足を含んでいるはずですが、少なくともコーアクシャル脱進機は、腕時計の従来の実用性を何ら犠牲にすることなく、時計内部で発生する摩擦を軽減することによって、ゼンマイが発生するエネルギーのロスを軽減することに成功した(=脱進機効率の向上に成功した)、ということだけはいえるでしょう。
スウォッチグループの公式サイトには「コーアクシャル脱進機は、250年ぶりに発表された実用的な新型機械式時計脱進機」との説明が掲載されていますが、これが時計業界においてどれだけ衝撃的なニュースであったかは、その後の多くの時計メーカー達がクラブトゥースレバー式の改良型を含む多様な新型脱進機を続々と発表するようになったことからも明らかでしょう。
もしかするとスウォッチグループは、エッタのムーブメントが普及し過ぎたことによって失われた自社の個性を取り戻すことで、競合他社がいつまでもエッタのムーブメントを使い続けていられる状況を打破したい、と考えていたのかも知れません。
しかしオメガ(すなわちエッタ)がコーアクシャル脱進機の普及に努め、リーズナブルな価格で大量に売り続けているからか、もしくは他メーカーのマーケティングが消費者の視線を分散させることに成功しているからか、もしくはそもそも「機械式時計が時を刻む仕組み」が大部分の消費者にとって興味の対象ではないということか。
筆者にはその偉大な進化が業界関係者、そして一部の熱心な時計ファンのみが評価するに留まっているように思えてなりません。
失われた自由を取り戻すために
先述の通り、エッタはムーブメントメーカーとして約75%ともいわれる圧倒的なシェアを築いた代償として、販売先や価格の決定権を失いました。
結果としてエッタは、いくらムーブメントを大量に売ったとしても利益が上げられなくなるという、危機的状況に陥ったのです。
更にはムーブメントへの投資が不要な同業他社達が潤沢なマーケティング資金を運用しているのを尻目に、膨大な量のムーブメントの生産を義務化されていたスウォッチグループは、生産体制の維持の為に設備投資を続けなければならなかったといいます。
2002年8月、スウォッチグループのトップであったニコラス G. ハイエック氏は、外部メーカーへのムーブメントや関連部品の供給量を段階的に削減し、2006年までには特定の大手メーカーに対する供給を停止する計画を発表しました。
これを受けてスイス連邦議会の競争委員会(通称「コムコ」 (COMCO, The Competition Commission))は2003年、エッタの取引状況などに関する調査を開始すると共に、調査中は供給削減を開始しないようにスウォッチグループに命じました。
2005年、約2年間に及ぶ詳細な調査を終えたコムコはスウォッチグループとの協議の末、自社ムーブメントの開発とその製造工場に対する投資が可能な大手メーカー達がその準備をするための期間を考慮し、2008年までの供給削減禁止、および2010年までは完全に停止しない、ということで同意しました。
その時点では250ドルまでの価格帯のエボーシュについては有力な代替手段がなく、エッタの供給停止は独占禁止法に抵触するとの判断を下したのです。
変化を始めた時計業界
こうしたスウォッチグループの動きに対して、スウォッチグループ外の大手メーカー達の多くは内製化を進めたり、スウォッチグループ外のムーブメントメーカーに投資して自社ムーブメントの開発を目指すなど、それぞれの方法で準備を進めました。
しかし依然として業界の2824系や2892系、7750系などのエッタの名作ムーブメントへの依存は大きく、その代替となる自社ムーブメントを同等の価格帯で製作可能な時計メーカーは存在しなかったのです。
そんなエッタのムーブメントの中でも、特に2824系は時計史上で最も多く生産され、最も広く採用されてきたムーブメントといわれていますが、その時点で製造が継続されていた2824-2の最新の特許は1984年に付与されたため、2002年にはその有効期限が切れていました。
この2824-2の特許の有効期限と、ハイエック氏による供給停止に関する発表のタイミングの一致は意図的なものであったかも知れません。
実際に特許切れと共に2824-2のクローンの生産を開始したムーブメントメーカーが少なからず存在しており、これに合わせてスウォッチグループはよりハイエンドなムーブメントの製造に注力する計画を立てていたといいます。
ともあれ、エッタがムーブメントの供給を止めても、同等品が安定して手に入るとなれば、しかも外装の設計を変える必要が無く、かつ引き続き「スイスメイド」を名乗る為の条件を満たすものであれば、それまでエッタに依存してきたメーカー達が採用しない理由はないでしょう。
セリタの急成長
実際にエッタの主力ムーブメント達のクローン開発競争がにわかに激化しましたが、その中でも最も多くの顧客を獲得したのは、エッタの子会社のひとつであるセリタでした。

セリタは1950年に創業したムーブメントメーカーであり、スイスの時計メーカーを中心として広く顧客を獲得してきましたが、1970年代のクオーツショックを機にエッタに経営権を譲渡、その後はエッタのパートナーとして、2824-2の組み立てを請け負うようになりました。
そんなセリタも2002年の2824-2の特許切れと共にそのクローンを開発した企業の一つでしたが、それまで20年以上に渡って数えきれないほどの2824-2の製造を手掛けてきたセリタに、そのノウハウで上回れるメーカーが有るはずもなく、セリタはクローンメーカーとして勝つべくして勝ったのです。
セリタには2824-2系のクローンであるSW200系、2892A2のクローンであるSW300系、そして7750系のクローンであるSW500系などが存在し、かつエッタのムーブメントにスタンダード、エラボレート、トップ、クロノメーターの4つのグレードが有るのと同様に、セリタではスタンダード、スペシャル、プレミアム、クロノメーターの4つのグレードが用意されています。
セリタは2024年現在、年間で約150万個の機械式ムーブメントを生産していますが、その全てがエッタのクローンで、かつそのうち2008年に改良を受けた2824-2のクローンであるSW200-1が約80万個を占めていると伝えられてます。

次回へ続く


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