ゼンマイジャーナル

時計の「楽しさ」について

自分もそろそろ潰しの利かなくなる年頃、との自覚が芽生えた頃のことでした。

私は異業種からなんとなくで発作的に時計屋の会社に飛び込み、香港ウォッチや並行のカシオなどを街の小売店さんに卸す仕事に就いたのでした。

そして生まれて初めて営業マンなるものに挑戦してみたもののなかなか上手くいかず、上手くいかないながらも仕事を辞めないでいたら洋服屋さんがアンティークウォッチを買ってくれる、と言っていたので、とりあえずは会社のお金でアンティークウォッチを少し集めてみたのですが、私が元々古いものが好きであったことが災いして、その辺りから仕事が妙に楽しくなってきてしまったのであります。

アンティークウォッチを色んなところから買ってきて、片っ端から裏蓋をこじ開けてはそこに書いてある番号を拾い、状態を確認しては修理に出し、修理から上がった時計にベルトを付けては売りに行く。

そんな普通に考えて退屈であるはずの仕事が、やけに楽しい。

まだかろうじて、良いものもガラクタも一緒クタで流通していた1990年代、日々が得体の知れないものとの出会いの連続であり、とにかくいろいろな時計との出会いが楽しい楽しい。

どうやって使うのか分からない時計、何に使うのか分からない時計、作った理由が分からない時計。

今のように情報も多くなかった時代、その場では結局分からなかった事も多かったけど、私という人間は、元々分からない事を追っかけまわすのは嫌いではなかったのです。

そんなこんなやっているうちに、知れば知る程に知らない事を知り、知らない事がくやしくて、もっと調べる。

たまたまその辺にあった書籍類を読み倒してみたり、修理職人さんに聞いてみたり、しまいには他の時計屋さんに電話してみたり。。

そんな事を繰り返しているうちに中毒にでもなったのか、時計を見るとどんなムーブメントが入っているのか気になって仕方ない、時計はどうやって動いているのか、どんなメーカーはどんなふうに時計を作っているのか、クロノグラフはどうして動くのか、などとキリのない世界に足を踏み込んでいったのです。

そして自分でもアンティークウォッチを愛用するようになり、少しは偉大な時計たちにも触れるようになり、技師の人たちが一生懸命作ってくれたものに尊敬の念を抱くようになってしまったのです。

「こんな小さな時計に、いろいろな人々の思いがぎっしり詰まっている。」とか

「秒針をビクつかせながらも無心に時を刻む姿が愛おしい。」とか

それから早数十年が経過し、世の中は変わり、ここ10年で時計は驚くほど高価になりましたが、これからもずっと、そんな気持ちを大切に、時計と向き合っていたい、なんて、未だに懲りない私でした。