ゼンマイジャーナル

エッタの歩み 第三章

更なる追い打ち 

クオーツ時計の普及にスイス時計業界が揺れる中、1973年10月に第四次中東戦争が勃発。

これを機にOPEC加盟産油国のうちペルシャ湾岸の6カ国が原油価格の約70%引き上げを、そしてアラブ石油輸出国機構が原油生産の段階的削減を立て続けに発表しました。

実際に3か月後には原油価格は約4倍にまで急騰し、世界経済に深刻な影響を与えたと共に、天然資源に恵まれたスイスは比較的安定していると見られたことからスイスフランに買いが集中、スイスフランはみるみるうちに高騰していき、スイスメーカーは時計の輸出価格を下げざるを得ない状況に陥りました。

1970年代初頭の年間販売本数が8,000万本以上有ったスイス時計は、それから10年も経たないうちに3,000万本にまで落ち込み、1970年の時点で80%を越えていたスイス時計の国際市場でのシェア率は1975年には58%、1983年には15%にまで落ち込みました。

スイス時計産業は様々な犠牲を払いながら改善に努めましたが、1970年に89,000人いた雇用者は1985年には33,000人にまで激減。

その間のASUAGの損失は4,400万スイスフランを越え、かつて130種類以上のバリエーションを誇ったエボーシュS.A.のムーブメントは40種類にまで縮小せざるを得ませんでした。

またSSIHにおいても1974年の時点で年間で1,240万本あった売上本数が1982年には190万本にまで激減、スイス時計産業全体が崩壊の危機に直面していたのです。

ニコラス G. ハイエック登場

1980年頃のこと、ASUAGやSSIHに対して莫大な投資を重ねてきたスイスの大手銀行らは、優秀なコンサルタント会社として知られていた、ニコラス G. ハイエック率いるハイエック・エンジニアリングAGにこれら2社の業績改善の為の戦略策定を依頼しました。

ニコラス G. ハイエック氏 画像引用元: https://www.omegawatches.com/

大小様々な多数のメーカー達が独自で技術開発を行い、独自のパーツや製品を生産していたのを目の当たりにしたハイエック氏は、これらの業務を統合し、パーツの共通化を進めることで大幅な合理化が実現可能と考え、ASUAGとSSIHの統合を提案しました。

そして1982年、統合に向けて協議が重ねられる中、エボーシュS.A.が先行して傘下のエボーシュメーカーの全てをエッタに吸収合併することが決定しました。

こうして数百年もの歴史を紡いでいたスイスの時計産業が生み出してきた、大小さまざまな数えきれないほどのムーブメントメーカー達が長年に渡って培ってきた伝統や技術の大半が一社に集約され、エッタは後にも先にも比較対象が存在しない、史上最強のムーブメントメーカーとなったのです。

スウォッチの誕生

デリリウム(Cal.999.001) 画像引用元: https://www.eta.ch/en/motorist-time/50-years-eta-quartz-technology

またハイエック氏は従来の機械式時計に頼った戦略だけでは、クオーツ時計に象徴される大量生産品に奪われたシェアを取り戻すことは出来ないと考えていました。

エッタは1979年、裏蓋を地板と見なしてムーブメントの部品を直接裏蓋に組み込むことで、大幅な薄型化を可能としたクオーツ時計、デリリウム(Cal.999.001)を発表していましたが、その金属製のケースを射出成型による樹脂製に置き換えることで、一層の低コスト化が可能であることに着目しました。

また時計の構成パーツ数の削減を徹底し、最終的にはストラップを含めて51点にまで絞り込んだ上で、生産ラインの完全自動化を実現するために、もはやスイス時計業界の未来に期待を持てなくなっていた銀行や関係者達の反対を情熱で押し切り、巨額の投資を行いました。

その結果として誕生した樹脂製のケースとストラップを持つ新しいクオーツ時計は50ドル以下という、消費者にとって手軽な価格に抑えながらも、量販店市場にも打って出られる程の低コストを実現しました。

更にこのプロダクトを “SECOND WATCH” を略した ”SWATCH” と命名することで、気軽に手に取れるを腕時計であることを表現すると共に、そのロゴにスイスの国旗を添えることで、高品質の象徴である「スイス製」ブランドであることを強くアピールしました。

またスタイリッシュなカラーやデザインのバリエーションを豊富に用意することで、コレクションする楽しみを提案に加えました。

その日の気分や用途によって使い分けるファッションアイテムとして、リピーターの獲得を狙ったのです。

1982年10月に予定されたテキサス州での先行発売に向けて準備を進める中で、当初オメガやロンジンなどを扱う既存の顧客の反応は芳しくなかったものの、大手量販店をはじめ、販路に困ることは有りませんでした。

そして1983年3月1日、エボーシュS.A.の責任者を務めていたエルンスト・トムケ氏によってスウォッチの発表記者会見が行われました。

まずはスイス、イギリス、アメリカでの販売が開始されましたが、その3カ国のみで半年のうちに40万本、発売から1年後までに110万本が売れるという大ヒットを達成、スウォッチは発売間もなくして莫大な利益をもたらすようになりました。

その後も常にフォロワー達を刺激する魅力的なデザインを繰り出し続けることで好調を維持し、1992年には1億本を突破するという快挙を成し遂げました。

スイス時計業界消滅の危機

一方で1983年にはAUSAGとSSIHが統合がされ、翌1984年にAUSAG-SSIHは早くも黒字回復を実現しましたが、それでもスイス時計業界の将来への悲観的な見方を変える事は無かった銀行らは、日本企業の好意的とも取れるAUSAG-SSIHの買収の提案に合意し、ハイエック氏に手続きを進めるように指示を出したといわれています。

しかしスイス人として、時計製造を自国の大切な伝統文化と信じて疑わないハイエック氏はこれに反発、スウォッチの品質管理と継続的な新作のリリース、そしてAUSAG-SSIH内の効率化を推し進めました。

そしてハイエック氏は1985年、ASUAG-SSIHを再編成してSMH(Société suisse de Microélectronique et d’Horlogerie)に社名変更して自身がそのCEOに就任、更にスウォッチの事業をスウォッチ株式会社(SWATCH Ltd.)にまとめてエッタから独立させ、SMH傘下各社の役割分担を明確化することにより、より強固な体制を目指しました。

画像引用元: https://www.swatchgroup.com/

機械式時計の復権

こうしてハイエック氏はじめSMHやその関係者達が努力を重ねる中、期せずして追い風が吹き始めました。

安価で高性能なクオーツ時計が急激にシェアを伸ばしていく中でも、時計業界内のみならず、一般消費者の中にもこれに反発する人々が少数派ながら存在していましたが、1970年代の不況から国際経済が立ち直っていく中で、豊かさを取り戻した人々による機械式時計の再評価が顕著化をはじめたのです。

すなわち機械式時計ならではの温かみや職人技が生み出す高度なメカニズム、世代を越えて愛用出来る耐久性、そしてステイタスシンボルとしての魅力は、エレクトロニクス技術の絶え間ない進化と共に複雑化、小型化、低価格化がどこまでも進み続けるクオーツ時計にはないものであったのです。

実際に1986年から1994年にかけてのスイス時計の総輸出額は倍増するに至り、2008年に起こったリーマンショックによる打撃を受けるまで、「時計バブル」とも呼ばれた右肩上がりの状態が継続したのです。

その裏にはあらゆる苦境を乗り越えて現在も尚、高い付加価値を提供し続ける時計業界関係者達による巧みな戦略が常にあり、自然な成り行きに任せていては決して今日の時計業界の繁栄はあり得なかったでしょう。

次回に続く

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