業務の効率化
先述の通り1926年に当時の大手ムーブメントメーカー3社の協議の末に誕生した企業信託、エボーシュS.A.は1982年にエッタの一社に集約されました。
そして1985年にはハイエック氏はAUSAGとSSIHを統合して、SMHという前例のない規模の時計メーカー連合を編成し、その運営を託されました。
以降エッタはSMH内の業務効率化の一環として、所属する時計メーカーのムーブメントの大部分を製造することになり、その結果として多数の有名なムーブメントを生み出してきたロンジンやオメガといった老舗メーカー達も、ほぼ全面的に自社製ムーブメントの開発を中止して、エッタのムーブメントを採用することになったと共に、様々なパーツの共通化が推し進められました。
それは時計史を彩ってきた名機たち、例えばロンジンの自社製クロノグラフやオメガのクロノメーターなど、各メーカーが長年に渡って、数えきれないほどの試行錯誤の繰り返しの中で育んできた個性的な意匠やメカニズム、そして良質な遺伝子の大部分が、その後は製品に活かされなくなってしまうことを意味していました。
しかしこれによってSMH所属の時計メーカー達は製品開発のコストや期間を大幅に削減出来るようになり、発生した余力によってマーケティングに注力したり、場合によっては販売価格を引き下げることも可能として、各社の業績回復に多大な貢献をもたらしたのです。

出典: https://www.fratellowatches.com/11-remarkable-omega-ads-from-the-past-ft-mcenroe-bond-jfk-and-robert-wagner/#pid=2
1980年代後半以降、スイス時計業界は機械式時計の復権の波に乗ってV字回復に転じますが、1985年の段階でそんな楽観的な推測が通用するはずもなく、この改革が無ければSMHの存続とその後のサクセスストーリーの全てが、そこで終焉していたかもしれません。
進化を続けるエッタ
一方、SMH傘下の時計メーカーのムーブメント製造のほとんどを引き受けることになったエッタに、SMHは出来る限りの資金を集中させました。
既に述べた通り、エッタは1985年の段階で、18世紀以降にスイスに存在した数多くのムーブメントメーカーの大部分を統合した、スイスのムーブメント製造に関する技術と歴史、そして伝統のほぼ全てを受け継ぐ前例のない規模の組織となっていましたが、SMHはムーブメント関連メーカーのみならず、外装メーカーや組み立て会社まで、あらゆる時計関連のメーカーを更に統合するか傘下に収めることで、時計製造の全てに精通する世界最高のマニュファクチュールを目指したのです。
そんなエッタの様々な子会社の中でも、二バロックスーFAR社は特にヒゲゼンマイの供給において、非常に重要な地位を占めてきました。

二バロックス-FAR社は、ASUAGの傘下にあった二バロックス社とFAR(Fabriques d’Assortiments Réunis)社が1984年に合併して誕生した会社であり、脱進機やゼンマイをはじめとする様々なムーブメント用部品の製造技術を有していますが、とりわけヒゲゼンマイの量産に伴う様々な困難の全てを克服できる唯一のメーカーとして、極めて貴重な存在であり続けています。
少なくとも2000年代の後半にシリコンをはじめとする新たなヒゲゼンマイへの取り組みが顕著化するまでは、ほぼ全てのスイス製の機械式ムーブメントが二バロックス-FAR社のヒゲゼンマイを採用していたといわれています。
例えば様々な自社製の機械式ムーブメントの傑作たちを生み続けてきた、スイスを代表する老舗ウォッチメーカー達もまた、ほぼ例外なく二バロックス-FAR社の顧客であることに変わりはなく、すなわち二バロックス-FAR社を傘下に有するエッタはSMH傘下のメーカーのみならず、スイス時計産業全体において、圧倒的な地位を占めることになったのです。
スイス時計業界の大復活劇の陰で
第三章の最後に、1980年代の半ばに復調の兆しを見せた機械式時計のセールスは、その後約20年間に渡って右肩上がりの状態が続いたことに触れましたが、これはもちろんSMHに限ったものではありませんでした。
時計業界の成長と共に多くの時計メーカーやブランドが息を吹き返し、または新しいブランドを立ち上げる動きが活発化していきました。
そして様々な時計メーカーにムーブメントを供給してきたムーブメントメーカーの集合体を礎として成長を続けるエッタは、必然的に数えきれないほどの時計メーカーを顧客に持つことになりました。
エッタは1980年代半ばの段階でムーブメントのバリエーションを40種類にまで削減せざるを得なかったことを既に述べていますが、それでも有名なCal.2824やCal.2892、そしてCal.7750といった、生産性、機能性、メンテナンス性の全てにおいて十分過ぎるほどの熟成を経た、極めて高い完成度と低価格を両立した名機を数多くラインナップし、それぞれに「スタンダード」、「エラボレート」、「トップ」、「クロノメーター」という4つのグレードが存在し、しかも機能の追加の為のオプションも多数揃ったそのカタログは、あらゆるメーカーのあらゆる需要に応え得るといえるものでした。
オリジナルのムーブメントを開発するには3~5年程度の期間と数億円~数十億円程の資金が必要といわれていますが、その先の勝利を確信して投資に踏み切るのが簡単でないことは、ここで改めて説明するまでもないでしょう。
それよりも商品開発のコストをできる限り抑え、競争力のある販売価格を実現し、マーケティングに注力する方が得策であることは、SMH傘下のブランドに限ったことではないのです。
特にエントリーラインからミドルレンジの機械式時計を製作するにあたり、エッタのムーブメントを採用するのが最良の方法であったことは、誰の目にも明らかであったのです。

問題の顕著化
その結果としてエッタのムーブメントは新興ブランドから老舗ブランドまで、ありとあらゆる製品に採用され、どんどん生産量を伸ばしていくことになりました。
これは一見サクセスストーリーの続きのように見えますが、スイス連邦議会の競争委員会(通称「コムコ (COMCO, The Competition Commission))はSMHの独占的な状況を鑑みて、SMHがムーブメントやそのパーツなどの供給先や販売価格の決定権を持つことは独占禁止法に抵触する、との判断を下したのです。
エッタやそのグループ企業に取って代われる企業はほとんどなく、彼らが一方的に供給停止や値上げなどを行ったとすれば、その影響で廃業を余儀なくされる時計メーカーが続出してしまう、というのが当局側の言い分でした。
まだ業界の規模が小さかった1990年代の初め頃はその影響は小さかったようですが、ハイエック氏は1980年代から自社ムーブメント製造に向けた投資を開始するよう、他社に再三に渡って呼びかけを行っていたといいます。
実際に業界の成長が進むにつれ、SMH傘下のムーブメントや部品を使用した他社製品とSMH傘下のブランドによる製品との競合が顕著化をはじめました。
そして困ったことに、エッタのムーブメントを使用しているにもかかわらず、それをカタログに明記しないどころか、あたかも自社で開発した独自のムーブメントを搭載しているかのような言い回しをするメーカーも少なくなかったのです。
更に酷いことに、有名なブランドを名乗る贋作にもエッタのムーブメントが多く使用されており、事態は悪化の一途を辿っていたのです。
SMHからスウォッチグループへ
1998年、その後の多角的な事業拡大とその中心となるスウォッチ・ブランドの重要性を踏まえて、SMHはスウォッチグループと改名されました。

オメガ、ロンジン、ブランパンといったスイスを代表する名門たちを多数傘下に収める世界最大のウォッチメーカー連合に、50ドル以下の価格帯を中心とするスウォッチの名前を付けることについて、内外からの反発が無いはずはありませんでしたが、スウォッチ・ブランドの多大な貢献故か、またはハイエック氏自身のスウォッチへの強い思い入れがそうしたのかはともかく、1998年6月24日、SMHは正式にスウォッチグループへの社名変更を発表しました。
FH (Federation of the Swiss watch industry = スイス時計協会) の統計によれば、2001年時点でのスイスの時計産業の時計の総輸出額は105億1700万スイスフランであり、うちスウォッチグループ傘下の時計メーカーによる完成品の時計の総売上高は30億9200万スイスフラン、すなわちスウォッチグループ以外の時計メーカーの輸出額は約74億2500万スイスフランと思われます。
一方スウォッチグループの年次報告書によれば、同年のエッタとその全子会社による売上額は約13億9200万スイスフランに上り、うち7億6700万スイスフランをスウォッチグループ外の企業に販売したといいます。
すなわちエッタとその全子会社の年間売上額はスイス全体の時計の輸出額の約13%、そしてエッタとその全子会社はスウォッチグループ外のメーカーによる時計の総輸出額の10%の売り上げを上げていたことになります。
ムーブメントやその部品の仕入れ原価が腕時計の卸売り価格の何パーセントを占めるかを考えれば、いかに当時のエッタのシェアが圧倒的であったかが想像できるでしょう。
時計ファンたちが抱いたエッタへの嫌悪感の正体
実際にエッタのムーブメントは優秀で、完成品のムーブメントを仕入れて説明書通りに組み込むだけで機械式時計として十分といえる精度を発揮してくれる上に不良率も低い為に、低~中価格帯の製品を中心として、外観に違いは有れど、実質的には同じ内容を持つといえる製品が市場に溢れました。
当時の時計ファンの中には、こういった作り手の愛情やこだわりが希薄に見える製品があまりにも多いことに嫌悪感を抱き、エッタのムーブメントをただ乗せただけのものとして「エタポン」と呼んで敬遠する人も少なくありませんでした。
更にはそんな悪いイメージが先行してしまうことで、実際には極めて優秀なエッタのムーブメントそのものに嫌悪感を抱かれてしまうという風潮被害まで広がりを見せましたが、その嫌悪感が的を得ていないことは、こうして歴史を振り返ればあまりにも明らかでしょう。
ハイエック氏が警告を繰り返していた通り、当時の状況に対して実際に反省すべきだったのは、自社開発に興味を示さなかった一部の時計メーカー達であったのかも知れません。
次回へ続く
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