ゼンマイジャーナル

エッタの歩み 続・第三章

第三章ではハイエック氏を中心にSMH(現スウォッチグループ)が、絶体絶命の危機の最中にスウォッチという革新的な商品を開発し、大胆で画期的なマーケティング戦略によって大成功を収め、スウォッチグループが立ち直るための基盤を作った、というストーリーについて触れました。

ドラマチックなストーリーによって、自社のブランドや商品をより輝やかしいものに見せようとするマーケティング戦略は、さまざまな企業によって毎日のように繰り返されているものですが、時としてこれは過去を書き換えてしまうことすら可能にしてしまうのかもしれません。

疑問

この稿を執筆中、大阪大学大学院の教授、ピエール=イヴ・ドンゼ博士が2011年に発表した
「The comeback of the Swiss watch industry on the world market: a business history of the Swatch Group (1983-2010) 」
という学術論文に出会いました。

これは1983年~2010年のスウォッチグループの経営戦略をビジネス史の観点から分析した非常に興味深い内容のものですが、当時のスウォッチグループが公表していた決算書をはじめとする資料が示していたのは、前章に綴った物語とは、少なくとも印象が随分と異なる事実でした。 

以下にその論文の内容について触れてみましょう。

1,AUSGAとSSIHの統合
1970年代後半以降、日本の時計メーカーによるクオーツ時計の性能の向上と低価格化により、スイス時計産業はかつて世界一を誇った国際市場のシェアの大半を日本に奪われました。
ASUAGやSSIHに対して多額の投資を重ねてきたスイスの銀行達はそれらの会社を再建体制下に置き、ハイエック・エンジニアリングをそのコンサルタントとして招きました。ハイエック・エンジニアリングのCEOであったニコラスG.ハイエック氏は、ASUAGとSSIHの合併を提案、1983年にはSMHとして、グループの再編による合理化を進めることになりました。
当初は銀行主導の体制でしたが、1985年にハイエック氏率いる投資家グループが株式の過半数を取得し、1986年からハイエック氏が社長に就任、強力なリーダーシップを発揮することになりました。

2,スウォッチの伝説について
前章で触れた通り、スウォッチグループ、そしてスイス時計産業の復活劇はスウォッチの大ヒットと、スイス古来の技術文化の存続によってもたらされたと一般的には伝えられています。
スウォッチがもたらした利益が、グループ内の再建やメーカーの統合などに投資する資金をもたらしたという、スウォッチの伝説です。
しかし利用可能な統計データによれば、非金属製の時計(=スウォッチ)のグループ全体の売上に占める割合は、1980~1990年代で20~25%程度、2000年代では10%程度に過ぎなかったのです。
当時は金属製の時計やムーブメントなどの他の製品と比較して、スウォッチの利益率が高かった可能性はあるものの、競争力の回復の源泉は、少なくともスウォッチの革新性だけでなかったのではないでしょうか。

3,生産システムの合理化、グローバル化
抜本的な改革のひとつの柱は、合併を繰り返してきたことによって肥大化した生産設備の大規模な合理化とグローバル化でした。
・ムーブメント製造のエッタへの一元化
グループ各社が独自に行っていたムーブメントの製造をエッタに集約し、バリエーションの大胆な削減と部品の共有化、互換性向上を推し進めることにより、大幅な合理化を実現。
グループ傘下の各メーカーは1984~1987年にかけて自社ムーブメントの製造を中止し、これによって捻出された余力をマーケティングにつぎ込むようになりました。
・垂直統合とサプライチェーンの掌握
大小さまざまな部品メーカーを次々と買収することでグループ内での内製化を推し進め、生産体制や品質、コストの管理体制を強化しました。
・生産のグローバル化
戦略的なムーブメントや重要部品の製造はスイス国内集中させる一方、1986年にはタイ、1991年にはマレーシア、1996年には中国の深圳など、生産拠点を次々と新設することで、コストダウンを図りました。

4,非技術的イノベーション
そして改革のもう一つの柱は、ブランドの差別化を含む新たなマーケティング戦略の構築でした。日本のメーカーは1990年代以降、スイス勢の巻き返しによってシェアの縮小に転じますが、それ以降も1995年のソーラー時計、1999年のスプリングドライブ、2005年の電波時計など、製品の技術的なイノベーションに注力を続けたものの、成長という点ではほとんど成果を得られませんでした。
対照的にスウォッチグループは製品の技術的な革新性よりも、ブランドのセグメンテーション、流通、小売り網の整備、コミュニケーションといった「非技術的イノベーション」を競争力の基盤としました。日本や中国の競合他社に対してブランドごとのポジショニングを明確にし、業界全体の牽引役となる強固なポートフォリオを構築したことが、世界市場への復権を決定付けた、と論じられています。

この論文から読み取れること

ハイエック氏がメディアの前で「スウォッチというポップカルチャーが、スイス時計産業の伝統を守った」と英雄譚を語っていたその裏で、社内で実際に行われていたのは「合理化」という名の良心と伝統の放棄でした。

1,工場の大量閉鎖と数千人規模の解雇
1983年当時、ASUAGとSSIHのグループ傘下には多数の独立した子会社や製造拠点が存在し、それぞれが独自の部品や製品を生産していました。
ハイエック氏ら経営陣が最初に行ったのは、これらの重複する拠点の徹底的な整理でした。
論文によると1983年に56カ所存在したグループ傘下の時計製造拠点は、1991年には24カ所にまで削減されています。また1983年から1989年のわずか6年の間に、全従業員の約30%に相当する数千人規模の解雇が行われています。
これと同時にそれまで数千種類存在した時計の部品やムーブメントの品番を劇的に絞り込み、自動化された生産ラインで大量かつ安価に生産出来る体制に移行させました。
これは彼らがマーケティング戦略として、数えきれないほど繰り返し利用してきた「大小様々な時計工房が長い年月をかけて培ってきた、職人の手作業による伝統工芸の魅力」を、少なくともスウォッチグループについては「過去のものとして否定し、捨て去ってしまった」と捉える事が出来るのではないでしょうか。

2,傘下のブランドによる「自社ムーブメント」の終焉
これは傘下の完成品メーカー、すなわちロンジンやオメガをはじめとする老舗メーカー達による多彩な自社製ムーブメントの開発、製造の終焉も意味していました。
中でもロンジンは、Cal.12.68ZやCal.19Aなどのクラシックな三針やCal.13ZNやCal.30CHといった芸術的なクロノグラフの数々、そして薄型自動巻ムーブメントの傑作Cal.990、そして様々な試行錯誤の末に生まれた超高精度機、Cal.276 VHPといったクオーツムーブメントまで、1832年にオーギュスト・アガシ氏らがサンティミエに小さな工房を築いて以来、脈々と受け継がれてきた時計作りの伝統がここに途絶えてしまった、といっても、過言ではないでしょう。

引用元:薄型自動巻きムーブメントの傑作。遅咲きの大器、ロンジンCal.L990 | 高級腕時計専門誌クロノス日本版[webChronos]

3,スイス国内の垂直統合とアジアをはじめとする「生産のグローバル分業」
スウォッチグループは合理化とコスト削減を目指し、スイス時計産業のの伝統であった分業ネットワークを解体して、自社を中心とする支配体制を敷きました。
すなわち、文字盤、ケース、リューズ、針などの独立した有力な部品サプライヤーを次々と買収しては傘下に置き、グループ外への供給をコントロールできる体制を敷いたのです。
そしてさらなるコスト削減を目指し、海外の生産拠点の拡大にも注力しました。
1986年のタイ工場設立を皮切りに、1991年にはマレーシア、1996年には中国(深圳)と、次々と拠点を増やしていき、付加価値の低い部品製造や労働集約的作業をアジア圏にシフトしていきました。

4,海外生産拡大によるコストダウン
さらに生粋の「スイスメイド」を貫いてきた「エッタ・ブランド」の海外製造パーツの含有率を引き上げると共に、アジア市場に向けて「ETA MADE IN THAILAND」と明記されたムーブメントの生産も開始し、日本メーカーに対抗するようになりました。
この論文の中でドンゼ博士は1998年の貿易統計を引用し、タイから輸出されたムーブメントおよび部品の1億3,740万ドルのうち、4,580万ドルがスイスに輸出されていた事実を明かしています。
すなわち「スイスメイド」として販売された時計の心臓部であるムーブメントに、多くの東南アジア製のパーツが採用されるようになったのです。
当時のスウォッチグループの脱・スイスの実態は、従業員比率のデータにもはっきりと表れています。すなわち、1983~1985年時点でのスイス国内の労働者が占める割合が80%であったのに対して、1990年には71%、1998年には54%にまで減少。その傍らで1980年代には統計になかった「アジア圏の従業員比率」は1992年に21%、1998年には33%、すなわち従業員の3人に1人がアジア圏の従業員という水準にまで上昇しています。

5,アジアのサプライヤーからの部品調達
エントリーラインからミドルレンジの製品については、グループ傘下のメーカーのみならず、有名な台湾の文字盤メーカーをはじめ、グループ外の海外メーカーにも積極的に発注するようになりました。
「伝統ある生粋のスイスウォッチメーカーらしからぬ施策」としか表現のしようがありませんが、スウォッチグループは「ムーブメントの価値の50%以上がスイス製であり、スイス国内で組み立て・検査が行われていること」という当時の「スイスメイド」の基準を逆手に取り、ケースや文字盤などの外装パーツをアジア製にすることで、実質的に時計全体を構成する部品の半分以上がアジア製であるにもかかわらず、合法的に「スイスメイド」を名乗っていたのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です