
スイス最大のムーブメントメーカーとして、スイス時計産業の盛衰に直接的な影響を与え続けてきたエッタ(ETA SA Manufacture Horlogère Suisse 、ETA SA)。
エッタやその関連会社が製造するムーブメントやその半完成品(エボーシュ)、そしてムーブメントを司る様々な部品は、自身が所属するスウォッチグループ内のメーカーはもとより、グループ外の伝統ある名門メゾンから新興のファッションブランドまで、また大手企業から中小企業に至るまで、ありとあらゆる時計メーカーに供給され、それを手にするすべての人々の信頼に応えてきました。
しかしエッタのマーケティングの対象は常に時計業界内の一部の人々のみで、決して消費者に直接アプローチすることはなく、またETAのムーブメントを採用する時計メーカーのほとんどがムーブメントの詳細を話題にしないか、もしくは独自のムーブメントを採用しているかのような説明ばかりを行っていた為に、ETAは圧倒的なシェアを握っていたにもかからわず、常に影の存在であり続けました。
こういった企業に対して一般消費者の持つイメージというものは、先入観の段階で停止してしまっていることが多いようであり、実際にエッタが圧倒的なシェアを占めた1990年代から2000年代にかけて、時計ファンの間ではエッタのムーブメントをベースとする時計を、個性のない安価な大量生産品のムーブメントを乗せて安直に製造されたものとして「エタポン」との造語で呼ぶ動きが広まっていました。
この「エタポン」という呼び名が本質を突いたものなのかはともかく、少なくとも日本のファンの間では、エッタは正当な評価を得ていなかったのではないかと思えます。
ここではそんなエッタの成り立ちや歩みについて触れながにら、本当の姿に迫ってみたいと思います。

スイス時計産業の危機が生んだエッタ
現在スイス最大の時計メーカー連合として知られるスウォッチグループ内の基幹企業の一つとして、ムーブメントの製造やムーブメントに関するありとあらゆる研究開発の大部分を担うエッタ。
これはあまり知られていないことかもしれませんが、そんなエッタはスイス時計産業が世界大恐慌やクオーツショックなど、度重なる危機を乗り越えてきた歴史の中に誕生した企業であり、その流れについて触れるには、話をスイス時計産業の成り立ちにまで巻き戻さなければなりません。
スイス時計産業発展の背景
一般的に知られる通り、スイスに時計産業をはじめとする精密機械産業が根付いた背景には、積雪に閉ざされる長い冬を乗り切る為に、農家、酪農家の間に自宅内で作業可能な内職が広まったことがきっかけとなった、といわれています。

近隣の工場からの依頼による部品製作などが内職の主な内容であったと思われますが、大切なのは古くからこのようなかたちで「分業」が行われていたことです。
実際にスイスの時計産業は大まかに分けると、ゼンマイやネジ、歯車などの一部の部品を専門に製作する部品製造メーカー、ムーブメント、またはその半完成品(エボーシュ)を設計、製作するムーブメントメーカー、そして時計の設計、組み立てを行う会社(エタブリスール)の3種類から成り立っています。
中には部品やムーブメントの製作、時計の組み立てまでを一貫して行うマニュファクチュールを名乗る時計メーカーも存在しますが、全くサプライヤーを必要としないメーカーはほぼないといえるでしょう。
部品共有のメリット
このような分業制において、例えば複数の組み立て会社が共通の部品メーカーと取引を行うとすれば、当然それらの組み立て会社は多かれ少なかれ、共通の部品を使用することになりますし、共通のムーブメントメーカーと取引をすれば、共通のムーブメントを使用することになります。
その恩恵として以下のようなメリットが考えられます。
1,部品やムーブメントなどの生産数を増やせる分、開発コストや生産コストを下げられる。
2,同じ、または似た内容の時計が多数出回ることで、短期間に多くのデータが集まる為に、製品が抱える弱点に早く気づけるようになり、より短いサイクルで信頼性の改善を重ねることが出来る。
3,例えばある製品に関わったメーカーが廃業していたとしても、互換性のある部品での修理が可能で、かつ同じようなムーブメントが多数出回れば、その分そのメンテナンスに長けた修理技師も増え、ユーザーの安心に繋がる。
実際にこうした分業制が生む様々なメリットが、1950年代以降にアメリカをはじめとする他国の時計メーカー達との市場競争に勝ち残ることが出来た要因といわれています。

大手エボーシュメーカーの出現
1793年、スイス北西部のフォンテンメロンの地に、小規模の時計工房を統合した世界最古のエボーシュメーカーといわれるベンゲレル&アンベール社(Benguerel & Humbert)が設立されました。
後にフォンテンメロン社(Fabrique d’ Horlogerie de Fontainemelon、 FHF)に改名され、1816年には自社の工場で初めてムーブメントの生産を開始、これが今日最大のムーブメントメーカー、エッタの礎となります。
1856年にはスイス ジュラ地方の小さな村、グレンヘンに、ヨゼフ・ジラール博士とウルス・シルトが後のエテルナ社の礎となるエボーシュメーカー、ドクター・ジラール&シルト社を設立。
程なくして同社は時計の完成品も手掛けるようになり、1889年に初めてエテルナの銘を文字盤に刻みました。そして1905年、社名をエテルナ社に改名します。
ちなみにエテルナ社は1904年、それまでのワイヤーラグを可動式とすることでより強固にストラップを固定可能な軍用の腕時計ケースに関する特許を申請しているほか、1908年には世界初のアラーム付きの腕時計を開発するなど、腕時計の黎明期に様々な革新を巻き起こしていることも付け加えておきましょう。
1896年には同じくグレンヘンにて、エボーシュメーカー、アドルフ・シールド社(A.Schield SA ア・シールド社)が創業。
更に1898年にはこれも同じくグレンヘンにて、エボーシュメーカー、アドルフ・ミシェル社(Adolphe Michel S.A. A.ミシェル社)が創業。
これらのエボーシュメーカーがスイスの時計メーカーを中心にムーブメント、またはエボーシュを供給することにより、時計メーカー達はムーブメントの開発や生産の為の労力を軽減出来、商品企画やマーケティングに注力する為のリソースを確保することが出来るようになりました。

第一次世界大戦
1914年に第一次世界大戦世界大戦が始まると、多くの時計メーカーは時計やその部品の製造を中止して、より収益性が高い弾薬などの軍需品をつくるようになりました。
しかし1918年に戦争が終わり、軍需が落ち着くと、だれもが時計製造を再開したのです。
当時は時計産業全体を取り仕切る団体などが無かったため、にわかな供給過多が発生し、たちまち多くの時計メーカーが過剰在庫に苦しめられる事態に陥りました。
売るに困ったエボーシュメーカー達は在庫の現金化の為にやむを得ず、スイス国外に対しても処分販売を開始しましたが、これを使用して製造された、国外メーカー製、特にアメリカ製の時計が安く出回ることで、スイスの時計産業全体の国際競争力を落とし、更に自分たちを追い詰める結果となりました。
更にはスイスの一部の銀行によるずさんな与信管理の影響もあり、1920年代半ばにはスイス時計産業は約2億スイスフランもの負債を抱えてしまいました。
エボーシュS.A.の誕生
1924年、スイス時計産業を保護する目的で業界の3/4を束ねるスイス時計連盟(FH)が発足、更に1926年には当時の三大ムーブメントメーカーであったア・シールド社、フォンテンメロン社、アー・ミシェル社によって企業信託、エボーシュS.A.が組織されました。

エボーシュS.A.は三社が合意の下で制定した以下の3つの基本的なルールにより、非常に有意義なものとなりました。
1、三社は経営の独自性を維持しながらも、価格設定において競合しないこと
2、製造の最適化とコスト削減の為、部品の共通化を推し進めること
3、三社間でのムーブメント、および部品の輸出に対する厳しい規制への合意
この協定は大いに支持され、1927年にはランデロン社、フェルサ社、ヴィーナス社なども合流、1930年代初頭にはスイスにあったエボーシュメーカーの実に9割がエボーシュS.A.に参加しました。
また1931年にはエボーシュS.A.の利点を認めたオメガやティソがSSIHを発足、1932年にはこれにレマニアも合流しました。
世界大恐慌とASUAGの発足
一方で1929年のニューヨークの金融危機を引き金として、あっという間に世界中を吞み込んでしまった世界大恐慌は、スイス時計産業にも更なる大打撃を与えました。
エボーシュS.A.はスイスのエボーシュメーカーの大半を統合し、経営の自由度を拡大することは出来ましたが、全体の方向性を決定する機能は無かった為に、急激な状況の変化に多くの企業が迷走し、短期間で2万人もの失業者を輩出してしまう事態となったのです。
そこで1931年、スイス連邦からの1,350万スイスフランを含む5,000万スイスフランという莫大な資金が集められ、エボーシュメーカー達の全体を統括する巨大なホールディング会社、スイス時計産業総局(ASUAG) が設立され、業界の再編がはじまりました。
エッタの設立
そして後に全体を飲み込むことになるエッタもこの時期に誕生します。
1929年の時点で従業員数約800人、年産200万個以上の規模を誇る大手メーカーに成長していたエテルナ社は、特に厳しい状況に追い込まれていたといいます。
当時エテルナの経営を担っていた創業者の息子、テオドール・シルドは、ASUAGやエボーシュS.A.への参加が自社にとってプラスになると考えながらも、自社の運営上の意思決定の自由度を損なう可能性があること、またエボーシュS.A.はエボーシュメーカーの為のものでエテルナのような時計組み立てメーカーのものではないことを懸念していました。
そこでテオドールは、自社のムーブメント開発・製造部門を本体から切り離し、新たにエッタ社として設立して、エッタとASUAG/エボーシュS.A.との同意を得ました。
エッタという会社は、このような苦しい状況の中で生まれたのです。
ASUAG内での分業体制の整備
1930年代初頭の段階でのエボーシュS.A.のメンバーを挙げると
フォンテンメロン
フルーリエ
ユニタス
プゾー
フェルサ
ア・シールド
ア・ミシェル
ベルノワーズ
レユニ
べトラッシュ
シェザール
デルビ
ヌーベル・ファブリーク
エッタ
ランデロン
ヴィーナス
バルジュー
ASUAGはこれらのメーカーそれぞれの特徴を活かして、ムーブメント製造を3つのセグメントに分けました。すなわち、
手巻きムーブメントはフォンテンメロン、フルーリエ、ユニタス等が
クロノグラフはランデロン、ヴィーナス、バルジューが
そしてその他のメーカーは、当時まだ普及に至っていなかった自動巻ムーブメントの開発にも取り組むことになりました。
エッタの革新は続く
エッタは技術研究に余念がなく、1930年には7.25ミリ×22.5ミリという、量産機として世界最小サイズの角型ムーブメント、Cal.610を発表。
1932年には1899年から会社を率いてきたテオドール・シルトが亡くなり、テオドールの兄、マックスの息子であったルドルフ・シルト・コンテスがその跡を継ぎました。
同年に会社はエテルナとエッタの2つの法人に切り離され、数年後にエッタは世界最大のエボーシュメーカーのひとつになりました。
そして1948年にはエッタの主任エンジニアであったハインリッヒ・シュタム氏の主導により、エテルナと共同で非常にコンパクトなリバーサ ホイール システムによる双方向自動巻機構、そして5つのボールベアリングで保持したローター軸を備えるエテルナ・マティック Cal.1194を発表。
Cal.1194は直径9 1/4リーニュ(20.5ミリ)という小型のムーブメントでありながら、群を抜いた巻上げ効率と耐久性を示し、非常に高い評価を集めました。
更にその翌年までには紳士用の直径12.5リーニュ(27.6ミリ)のCal.1247や直径11.5リーニュ(25.6ミリ)のCal.1248なども登場、その後の自動巻機構の基準を打ち立てました。
この時計史上の重要な革新は、その後約20年間に渡るエテルナ、およびエッタの驚異的な成長の起爆剤となったことも付け加えておきましょう。
またエッタはこれと同年の1948年に時計製造学校を設立、1950年代以降、技術者、技能者を養成して自社で採用するというサイクルを生み出し、産業の発展に大いに貢献しました。
第二次大戦中に他の主要国、すなわちアメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、日本などは軍需産業に重点を置いたのに対し、永世中立国であるスイスの時計産業は近隣諸国の軍用時計の大量発注などもあって時計の生産を継続することが出来ました。
戦後、スイスは時計の国際市場において圧倒的なシェアを占め、他の国の多くのメーカーを廃業に追い込みました。
その後ASUAG/エボーシュS.Aは見事に機能し、スイス時計業界は1970年代の初頭にかけて、おおむね順調な時代を過ごすことが出来ました。

次回へ続く →
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